初夏の頃、敦賀周辺の越前海岸に潜ってみると海中一杯に淡い白雪のような物が静かに舞っている。学者によれば、これはプランクトンの死骸だという事であるがこれは間違っている。海の七不思議の一つ、かいりんぼうの正体が判らないものだから、理論的に説明のつかない海の淡雪を世間に馴染みの少ないプランクトンの死骸という自分達に都合の良い説明でごまかしてしまっている。驚いた事に、海洋学者の卵である最近の水産大学の学生連中でさえ、それが真実かどうかに全く疑問を抱かないというから恐れ入った話だ。
私は気まぐれなかいりんぼうを知り始めてから、舟に乗る時には必ず鋭い針を持参するのを忘れないサラリーマン釣師である。そもそも私がやつを知るきっかけとなったのは、暗い浜辺で妙な焚き火をしていた深い皺を額に刻んだ古老との出会いである。私は夕まずめの釣りを終えて帰路につく迄のしばらくを、楽しませてくれた海に感謝の意を込めて体を向け、波打ち際を眺めるのを常としていた。
ある日、いつもの様に寄せては返す波を見つめていると砂浜を少し上がった方角から風が妙な、少し甘酸っぱい匂いを運んできた。その方向を見つめると、老人が焚き火をしているのが目に入った。その日は晩秋とはいえ昼のぬくもりが消え去るのが早く、これから釣り道具を積んで武生の町までオートバイで約5Kmの山越えをして帰る私には暖を取りたい気持ちがあり、浜での孤独な釣りの後のほっとした人恋しさからその老人の方に足が向いていた。
焚き火をしている老人の顔がはっきりと判る所迄砂浜を上って行った時、私はふと昼間この浜辺に下りる道端で貝拾いをしてきたらしい女の子達が「今日もあの気狂いじいちゃん臭いもん焼くんけろ」と言っていたのを思い出して立ち止まった。その時、近づいて来る私に気付いて燃やしていた物を持ったままこちらを向いたその老人の視線と私のそれとが一致した。その怒ったようないぶかしげな表情の中に生来の優しさを僅かに見出した私は自分に女の子ではないんだと言い聞かせながら気後れしつつ「寒やの」と言いながら火のそばに近づき、老人の表情の変化を窺った。老人は黙って立ったまま、私を見つめていた。私はそんな老人から目をそらすように焚き火の上でシューシュー音をたてている物に目を落とした。その瞬間、私は目が引きつり、声が出なかった。それは腕であった。
老人が腕を燃やしている!!匂いの源はこれだった。私はその場にどしんと尻餅をつくと気がフッと抜けるのを感じ、意識が薄らいでいくのを防げなかった。
「兄さん、兄さん」と遠くで呼ぶ声にうつろな目をスーッとあけると眼前に皺が見え、次第に小さくなって先ほどの老人の顔が視界に広がった。思わず私はおのれの腕に目が行く。と、老人が私の腕を掴んでいるではないか。私は「助けてくれ」と叫んだ。いや、叫んだ積りだった。でもそれは声になってはいなかった。「兄さん見たね」気がついた私を抱きかかえていた老人は意外にいたわりのある声でそう言った。その優しさに私はやっと我に帰り、「な、なんて事を」と言いながら気を失った時運ばれて来たらしい粗末な老人の小屋の中を見渡した。
「驚くのも無理はない。このわしでさえ初めてあれを見た時は身の毛のよだつ思いをして一月はうなされていたんだから。」自分の腕がもぎ取られる心配がなくなり、ほんの僅か落ち着きを取り戻せた私に老人がこう言った。近くで見る老人の顔は百才を越えるかと思わせる皺を数多く刻み込んでいた。
「あいつには皆会っているんじゃよ。あいつのすばしっこさといったら、くそっ、わしがこんな事をしていても何の足しにもならん事はよく判っているんじゃがの」まだ私には何が何だか全く飲み込めなかった。
意外にはっきりした口調で、自分に言い聞かせるように老人はぼそっぼそっと語り始めた。
「お前さんがご覧じたのはかいりんぼうじゃよ。瓦版でも取り上げんところをみると殆ど正体が知られとらんらしい。ふん、やっぱり知っていても、わしのように気狂い扱いされちもうんじゃけ誰も言うまいの。これで良いんかもしれんて。わしは知っとるぞ。どこそこで船がぶつかった、転覆した等と言うとるが、皆あいつのしわざじゃ。お前さんは知るまいが、お前さんは魚に半分、あとの半分はあいつに相手をされているんじゃよ。」「何とな、かいりんぼうとな、嘘だ」「何が嘘なもんか、お前さんが投げている針は半分は空っぽで帰ってくるじゃろ、あいつが取っとるんじゃ。あいつも考えおるわいの」
老人の断片的な話をまとめるとこんな信じられない動物、いや植物なのか、兎も角見た事もないような生き物が海中にいるというのだ。
そのかいりんぼうは人間の腕の形をしており、結構大きいくせに人の気配を感ずるとスッと岩陰に隠れてしまう。そいつは腕力を持ち、砂浜に潜る事もできれば物を掴み、ひじを曲げて素早く泳ぐ事もできるという。老人の観察したところ、敦賀の他、千葉県、静岡県にどうも多くいるようだと言う。潮が動かぬ満月の晩の満潮時30分位の間、海中で揃ってゆらゆらと根を生やしたように揺れていて、その間だけは動きが鈍く、それ以外の時は30本、40本(この数え方が正しいかどうか)が群れをなし、網をうつ漁船に手を掛けて思い切り揺さぶるので海難事故が発生するんだそうな。
そう言われてみるとどうもこの辺りに釣りに来ると、カワハギやフグとも違う餌取りがいるようなのにいつもすぐに餌を取られてしまうわけでもなく、暫く粘ると狙いのカサゴ、ベラが釣れるというのは実はあいつの仕業だったのか。
半信半疑というより七三で疑いが解けぬ私は老人に尋ねた。「したがよ、そんなもんがどうして取れるんけ、変じゃん」「ふん、元はといえばあいつも無害な、目に見えん位小ちゃなもんじゃった。わしら漁師には古くからの言い伝えで知られとっただ。そいつが悪さを働き出したのは信じられぬ位大きくなった途端にじゃ。もう40年にもなるかの。思い出すんで話しとうもにゃあが、わしは息子をやつにやられたんじゃ。」
「わしは16になったせがれを連れて沖の蟹の刺し網を引き上げに行ったんじゃ。わしはこの地でも元は蟹の生まれ変わりかと言われた位腕の立つ漁師じゃった。当然海図にも載っとらん水温の安定した深場をいくつか知っとった。うん、これはわししか知らん場所じゃ。そこで二日前に入れた網を息子と上げにかかるとどうじゃ。今迄体験したこともにゃああの引き、うん、ときたま鮫の奴が引っ掛かる事はあったが全然違う。何か網全体をあちこちで引っ張るんじゃよ。一引きすればそれに呼応するように一引き、二引きすればまた二引き、何か気味悪くなっての、息子と顔を見合わせた。せがれはやはり若かった。盲蛇におじずというやつで度胸もあった。わしの制止も聞かず、海に飛び込んだ。わしがせがれのいたましい姿を見たのはすぐじゃった。潜ってもう息も切れるじゃろうと思うた頃、腹の中をみんな吐き出すような大量の泡が舟の周りに上がってきた。不安にびくついたわしは何かにすがるような気持ちで必死に網をたぐった。ああ、こんな事ってあるだろうか、誰かがしたとしか思えない。せがれは顔中に殴られたようなあざを一杯につけ、刺し網に、刺し網にだよ、ぐるぐる巻きにされて上がってきた。わしゃあ辺りが見えなくなっただ。今まで横で元気な顔をしていたせがれの余りの変わりように気が遠くなりかけていた。その目に飛び込んできたもう一つの驚きは人差し指をからませた一本の腕、付け根から何も無い腕だったんだ。わしゃ知らなんだ、ああ知らなんだ、本当だったんだ、浜の気狂いじい様が言っていた事は本当だったんだ。」
<中略>
私は兎も角もこのじいさんの言う事を信じるようになった。そして釣りに出る度に針を持つのは、このかいりんぼうが原発から漏れるプルトニウム235で異常肥大したが、弱点である親指の付け根、漢方医学でいう合谷という経穴が心臓部に当る為、悪さをするやつのここに、針を突き立てる為なのだ。